常連のなり方

連投です。

仕事外で活字を吐き出したくなり、思い付くままに書きなぐっています。

 

さて、今回は飲食店での常連のなり方について、実体験に基づく考察を書こうと思います。

 

皆さん、帰り道にふらっと立ち寄りたくなるようなお店、気になるお店はありませんか。

 

仕事関係や学生時代以外の交流が欲しい、新鮮な出会いが欲しいと思ったことはないでしょうか。

そんなときにもbarでの交流が良いのではないかと思います。

 

けど、いつも常連達で賑わっていて、なかなか一人で入るのに勇気がいる。

自分は社交的ではないし、常連達の輪には入れず気不味い思いをしたくない…と尻込みをしてしまう。

 

私もそうでした。

ただ、考えていただきたいのは、最初から常連はいないということ、お店新しい古いに関係なく常連内にも転居などを機に循環があるということです。

また、お店の経営者もいつ来るか分からない新規の客より、定期的な売上が見込める常連を求めていることです。

 

つまり、お店側も絶えず常連客となるべきあなたの来店を望んでおり、あなたの常連化を望んでいるのです。

いつも常連でいっぱいに思えるお店でもこのことは当てはまります。

 

では、常連になりたいあなたと常連を作りたいお店を繋ぐウェディング必要なものは何か。

 

それは、行く時間帯です。

 

barというのは、一般に2件目利用が多いため、常連たちは、21時等比較的遅めの時間に訪れることが多いように思います。

この時間に初陣を当てると、恐らく常連陣の輪には入れず気不味い思いをすることになると思います。

 

そこで、私がおすすめなのは客の少ない19時や20時頃の比較的早い時間に初陣を当てることです。

こうすることにより、接客に余裕のある店員(店長であればなおよい)とコミュニケーションをとることができます(たぶん、店員の側から話かけてきます。)。

このとき無理に気取ったり、気構えることはありません。

ほかのお客さんに無理に話しかける必要もありません。

このとき気をつけるべきは、常連になってもトラブルを起こさなそうだということだけです。

何となく会話が成立したら、この日は長居をせずに帰りましょう。

 

次回以降はあまり日をおかず、また同じくらいの時間帯に訪れましょう。

そして、また店員(あるいは店長)との会話をこなしましょう。

 

こうすることにより、店員(あるいは店長)に最近よく来てくれる客だと印象付けることができます。

 

三四回通い、店員(あるいは店長)と顔馴染みになれば、常連化ゴールまで折り返しのところまで来たと言って良いでしょう。

 

ここまで来て、やっと今度は金曜日、土曜日の21時以降にお店に行ってみましょう。

恐らく、お店の常連達が幅を利かせて賑やかにやっている頃合いだと思います。

ただ、怯む必要はありません。

こちらには、それまでの店員(あるいは店長)との時間があります。

きっと、店員(あるいは店長)が常連とあなたを繋ぐ緩衝材(味方)になってくれるはずです。

 

ここが常連が集うコアタイムに初陣を当てる場合との違いです。

 

この日を乗りきれれば常連と呼ばれるまでそんなに時間はかからないと思います。

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「趣旨」を考える

またまた久々のブログです。

 

最近、自己研鑽を疎かにしていたと後悔しているplupです。

今年はたくさん本を読み含蓄を深めたいと思います。

 

誰もが情報を世界に届けることが可能となった情報化社会において、アウトプットばかりに目がいきがちですが、アウトプットはインプットを前提とする作業だと思っています。

 

人と異なる知識、経験をインプットしているからマネタイズできるのです。

 

今日は私のインプット方法を紹介したいと思います。

 

それはある情報Aに触れたとき、

その表層をすくうのではなく、何故その情報が重要なのか、その情報Aの根底に流れている趣旨や幻想は何かに目を凝らしたり、他の情報との位置付けを自分なりに考えることにしています。

 

短く中途半端ですが、以上です。

 

 

【久々】秋の町散策

今週のお題「芸術の秋」

とんでもなく久しぶりの投稿です。
自分すらブログの存在を忘れていました(--;)。

最近仕事では即レスを意識してます。
どの仕事でもおなじかもしれませんが、案件は寝かれると漏れなく発酵し出すということを知りました。
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さて、お題に則して「芸術の秋」です。
町はすっかり秋めいていますね(冬のような日もありますが。)。
葉の色合いの変化を日々の些細な楽しみにしています。

私は生来散歩が好きな質です。
休みの日ともなると、知らない町を予定も決めずに歩きます。
知らない町に知らない人たちの生活があると思うと何とも言えない気持ちになります。

一体この世はどういった動力で動いているんだろうとから私はときを同じくして出くわしてる人たちのどういう場面に立ち合っているのだろうとか、月並みかもしれませんがそんなことを思います。


町の移ろいも良いです。
ホントに東京は角を1つ曲がるだけ違う風景になります。
路面電車等に乗って要所要所で降りると全く違う街並みになります。
それらの町の中で、私自身も景色の一部になりながら、思い思いのお店だったり施設に入ると思いがけない出会いや経験ができます。
その都度、この世の複雑さと深さを感じます。

この経験や想起される思い、これら全てが私にとっての秋の芸術と呼べるのではないかと思えます。

以上です。

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【提言】LINEの履歴は消さないように!

皆様

お世話になっております。

PLUPです。

 

さて,今回は弁護士目線から見た日常生活への提言です。

平和な日々を送っているとつい自分はトラブルとは無縁だと思いがちですが,実はトラブルは常に身近なところにあります。

 

ご自身が事件の被害者になることだってあるだろうし,信頼していた人に騙されたり,裏切られることもあるかもしれません。

 

法的トラブルの当事者になってしまったとき,どうやって自分を守るのか。

 

私人間(会社間)のトラブルは,刑事上の加害者・被害者という構造のように一概に区別できないものなので,トラブルが発生したときにあなたには必ずご自身の言い分(主張)があるはずです。

 

もちろん,その言い分が法律的に通るものか否かは実際に専門家による検討が必要になってくると思います。

 

しかしながら,

いつか起るトラブルに対し備えておくことはできます。

それを以下,述べていきます。

 

言い分を分析的に区別すると,

「トラブルに至る経緯に対するあなたの認識している客観的具体的ストーリー」と

「これを前提とする相手に対するあなたの要望」に分けられ,それらを総合して,あなたがするべき法的主張が見えてきます。

 

このうち,

あなたの認識する客観的具体的ストーリーを裏付ける「証拠」を保存しておくことは今からでもできます。

 

例えば,

離婚事件の類でよくあるのですが,

「私はこれまで何年にもわたって配偶者から日々虐待を受けていました。精神的苦痛を被っていたから,今すぐ離婚したい。」

というご相談はよくあるかと思います。

皆さんも報道等でもこういったケースを目にすることはあるのではないでしょうか。

 

ご相談者様が深刻な顔で苦しい経験を口にされると,その全てを信じてあげたいという気持ちはどこかにあります。

 

ですが,「虐待」という言葉は事実そのものではなくて,「評価」であることには注意が必要です。

 

一聴しただけだと相談者様が仰る配偶者の行為が客観的に「虐待」とまでは評価できるか怪しいときがあります。

また,極端な場合「虐待」という評価の根拠となる事実が全くの嘘ということもあり得るわけです。

 

そこで,重要になってくるのは「証拠」です。

 

「身体的な虐待」にあっていたと仰られる場合には,その証拠として医師作成の診断書や怪我,アザの写真等が挙げられます。

それらの資料から看取できる怪我の部位,その程度から,およそ事故等によって発生したと考えるには不自然な物であったりすると,(どの程度立証できるかには種々差はありますが,)単にお話だけを伺うより強固に「配偶者からの虐待」があるのではないか考えることができます。

 

では,「モラハラ」等に代表される精神的虐待の場合はどうでしょうか。

例えば,「何か話すとすぐ配偶者から『うるさい』『だまれ』と恫喝される。」,「配偶者からお前は浅はかで軽率な人間だと言われた。」や「行為を何でもかんでも支配されて,束縛される。」等から,精神的苦痛を受けたというような相談があったとします。

 

しかしながら,これについても上記の身体的虐待と全く同じことが言えます。

 

そういった発言・行為が全く存在しない可能性はあります。

また,「うるさい」・「だまれ」という発言の直前に,ご相談者様の方が配偶者に対し,より強い表現で人格批判をしているケースだって考えられますし,「浅はかで軽率な人間だ」という発言が意訳で実際の発言自体はもっとオブラートに包まれたものの場合だってあります。

 

ですから,こういったケースにおいても「証拠」が必要になってきます。

身近なものでは配偶者との間の「LINE」のトーク履歴はとても参考になりえます。

普段の両者の関係性がありありと現われることがありますから,虐待の存在を裏付ける大切な証拠になることがあります。

 

ただ,ご相談を受ける際にままあることなのですが,「LINE」のトーク履歴が機種変更等の理由で消えてしまっている場合があります。

これは相談を受ける弁護士としても本当に残念なことですし,ご相談者にとってもよくない結果をもたらすことがあります。

 

…そこで,一番最初に戻るのですが,

いつトラブルに巻き込まれるともわからないので,「証拠」の保全は大切に行った方がよいです。

またまた説明が長くなりましたが,これが今回の記事のテーマでした。

 

まず手始めに,身近なLINEのトーク履歴について,携帯電話の機種変更などをされる際には,この記事を思い出していただきご自身のLINE履歴を残されると良いと思います。

 

お読みいただきありがとうございました。

以上です。

 

【日記】「この世界の片隅に」を観ました。

皆様 

お世話になっております。

 

plupです。

 

 テーマを絞るべきなのでしょうが,今回は,最近観た「この世界の片隅に」について感想を書きたいと思います。

 

 思い返せば,感想文なんて書くタイプではなく,夏休みにはなるべく薄い本を選んで,原稿用紙のマスを埋めるためにただただ言葉を並べていた口です。

 一回も賞の選考されたことはなかったし,着眼点もありふれていたように思います(独創性欲しい!)。

 

 そんな私ですが,遅ればせながら「この世界の片隅に」を観て,いろいろ感じたので,自分でその思いをちゃんと整理する意味も込めて徒然と感想文を書いてみます(まず,「いろいろ感じた」っていう表現がなんとも言えないですね。)。

※なるべくネタバレしないように書きます。

※陳腐な可能性大です。

※戦争についてそんなに詳しくないです。

 

 さて,物語は第二次世界大戦がそろそろ始まりそうな頃の広島から始まります。

と言うものの,じゃあ,その頃の庶民皆が目をギラギラさせながら着々と戦争への準備をと進めているかというとそうではなく,そこには,今と変わらぬ「平穏」が流れていました。

 いずれ落とされる「悲劇」の予感もなく,人々は街をぶらついたり,仕事したり,笑ったり,泣いたり恋をしたりと,めいめい自分たちの日々を謳歌しているのでした。

 

 ときは進み,舞台は,開戦後の山口県に移ります。

 そこでは,人々の日常の中に「配給の減少」,「旅行の規制」,「軍艦の往来」,「街ゆく軍人」と言ったが異物が何ら違和感もなく溶け込んでいました。

 次第に,「防空壕」や「徴兵令」も日常の中に侵入し,どんどん人々の日常(普段)が上書き更新されていきます。

 余りに大きな力に抗えず(抗う気力なく),人々にはただ現実に流され,更新された現実を受け止めることしかできません。

 戦争という状態に疑問を持つことは許されていません。

 街に降る爆弾,大切な人の負傷や死までも,そうした日々の中で,ただ目の前を通過していくのでした。

 

 戦争前の日々との対比で改めて戦争の凄惨さと行き過ぎた時代というものの怖さを痛感しました。

 当たり前ですが,死に行く人々,一人一人に意思があり,気持ちがあり,家族がいて,大切な人がいたことを気づかされました。

 

 今を生きる私たちの多くは戦争の状況,結果を事後的に史実として学びますが,

 (少なくとも私の乏しい想像力が負いつかないためか,)どこかで戦争のことを私たちの世代とは隔絶したフィクションのように感じてしまっていたところがあったように思います。

 質的に異なるかもしれませんが,今を生きる私たちが既に携帯電話の無い生活を想像できないように。現実なんだけどフィクション感。

 想像してもいまいち現実味のない感じ。

 

 それが,今回この映画は主人公を含め登場人物皆が私たちと何ら変わらない人間であり,彼らを通じて戦争を捉えているだけに戦争というものの輪郭をとてもリアルに感じ,そして,戦争も戦争に向かう時代に対しても心から恐怖を抱きました。

 

 思い返せば,この手法は,能年玲奈を一躍お茶の間のスターに押し上げたNHK連続テレビ小説あまちゃん」にも通ずるところがあるように感じました。

 因果なものですね。

 

 最後に一つだけ,(ネタバレ表現を含みますが,)印象的だったシーンは,終戦の場面です。

 ラジオを聞きながら,誰かが発した「はい。終わった。」という言葉。

 あの一言に,庶民がどれだけ時代に翻弄されていたのかが如実に現れていたように思います。

 

 他にもこの映画は音楽,作画を含めて素晴らしい点がたくさんありましたが,これ以上書くと,散文してしまいそうなので,この辺で止めておきます。

 なお,一息で書いたので,誤字,重複表現があるかと思いますが,その点はすみません。最後に謝ります。

 お読みいただきありがとうございました。

                                  以上です。

【資格試験対策③】「生の事件」を解いてみる

皆さん

 いつもお世話になってます。

 Plupです!

 

「試験対策系なら続きそうだ!」と思っていましたが、早くもネタ切れとなりつつあります。完全に見切り発車でした…。

 

 さてさて、今回は論文問題のある試験を受験される方々を対象としています。

 

私が受験当時、論文試験の勉強方法として効果的だなと感じたのは「生の事件に当たる」ということでした(紛争当事者になれという訳ではありません。これを読まれた後に暴力事件を起こされても責任は負いかねます。)。

 

 

この方法は「知識もそれなりになりあって、択一では点数が取れるんだけど…。論文がなー。」という方におすすめです。

 

 

司法試験受験生の多くは判例百選を持っていると思います。

そうでなくても何らかの判例本は持ってると思います。

 

これを論文の「 問題集」として用いるのです!!

 

百選は「事案の概要」と「判例の要旨」と分けられていますよね。

この事案の概要を「出題」、判例の要旨を「模範解答」として答案構成をしてみるのです(もちろん、百選は問題集ではないので適さないものもあります。)!

 

要は、当時事件を担当した裁判官の考え方を後追い出来るか否かを試すわけです。

 

 

そうするといろいろ見えてくるものがあります。

感覚的で申し訳ないのですが、「あぁなるほどねー。だから、この点が問題になって、こういう解釈をとったとのかー。」って理解できます。

論点抽出能力と解釈能力、当てはめ能力を一度に高めることができます!

 

これ、試験上大切だと思いますし、実務家になっても結構大切な要素だと思ってます。

 

何となく「判例の規範部分」って天から降ってきた真理と思われがちで(思いがちで)、唯一絶対のものと思いがちです。

 

だから規範こそ正義!規範さえ覚えきれば何とでもなる!と思われる方もいるかもしれません。

 

しかし、実務家になってから日々思い知らされるんですが、判例に出てくるものと同じ紛争事件はあまり無いんですよ。

 

「あっ!この判例とこの点で違うけど、何か影響あるのかな…?」とか「本当にこの条文適用できんの?」みたいなこともあります。

 

それもそのはず、規範を作った裁判官本人だって、この規範で同種紛争全て漏れなく解決したるぜ!なんて意気込みは持っていないはずです(多分。違ってたら謝ります。)。

あくまで出発は、目の前の事案を適切に解決するためものですから、 事案が違えば解釈も変わり得ます。

 

またまた話が逸れましたが、

この勉強方法によって、初見の問題でも出題者の意図を知ることができましたし、臆せず取り組むことができました。

 

以上です。

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資格試験対策②】合格水準を意識する

お世話になっております。

PLUPです。

 

初めてブログを投稿したにしては意外と読者数が伸びて嬉しかったです。

一人じゃないんですね。

おかげで久々に承認欲求が満たされました(^^)。へへ。

お読みいただいた方はありがとうございました。

 

「読んで損した。」「当たり前のことしか書いてないじゃねーか。」と思われた方は,コメントいただければより具体的にお応えできるかもしれません。

 

さて,前回に続いて資格の受験をする際,私が意識したことを書きます。

それは…

 

 

「合格水準を意識する。」です。

「太字にまでして,また当たり前のことしか書いてないじゃねーか。」と思われた方,もう少し辛抱してお読みいただければと思います。

 

 

皆さんの中にも資格試験を受ける際,「合格率」や「合格点」について検討されている方は多いと思います。

ですが,『「合格」のためにどんな能力が必要となるか。』をあまり注意深く検討されていないのではないでしょうか。

 

これは,意外と盲点だと思います。

 

「自分さえちゃんと試験対策をすればきっと合格できるはずだから,まわりがどうとか関係ねーぜ。」とか思ってませんか。少なくとも私は思っていましたよ(汗。

 これはわりと無謀でした。

 何の種目に出るか知らされないまま,オリンピック出るのと一緒なんだと今は思います(漫画やドラマに出てくるような天才は別。彼らは放っておきましょう。)。

 

 「とにかく体鍛えていればいいだろう。」が通用しないのと一緒で,「(やみくもに)勉強してれば,いずれどうにか道が開けるだろう。」っていうのも違うんです。きっと。

 

 ですから,この「合格水準」って,試験勉強を始める際,一刻も早く知った方がいいんです。

 鍛えるべき点が分かってきますから。

 

 

 じゃあその「合格水準」を知るためにはどうするのか。

 心して読んでくださいよ。。

 …

 …

 …

 行きますよ。

 …

 …

 ずばり

 「2~3年度分の過去問を試験制限時間等試験当日と同じ環境下で解いてみるのです(ドヤ笑)」。

 

 で,このときの合格者平均点もしくは合格点がまさしく「合格水準」です。

 そのとき自分が取れた点数が現在のご自身の対当該試験との関係での能力となります。

 

 試験を解いた後,「もっと時間があれば。」とか「問題読み間違えてた。」とかいろいろ言いたいことはあるでしょうが,その結果を受け止めて,ちゃんと合格者水準と自分の能力水準としてちゃんと捉えられるのか否かが後々大きな違いとなってきます。

 

 これを意識できれば,

 ①まず「満点」をとる必要がないことを理解できてきます。

 なので,配点の低いニッチな分野の勉強に必要以上の時間を費やすことも削減できます。

 

 ②また,「配点」も見えてきます。

 だいたいの点の取り処,自分の弱いところが見えてきます。

 端的に言うと,どこで何点とればいいのかが見えてきます。

 その上,特定の分野についても出題の癖も見えてくる場合もあります。

 

 ③特に論文試験がある資格試験の場合,過去問の最優秀答案ばかりに目を奪られて,自分との差に驚愕し,茫然とする必要はなくなってきます。

 

 これ大きいです。

 

 私は,過去にある試験前日(ある法科大学院の試験です。),試験に備えかつ丼を食べに近くの定食屋さんに行ったことがあります。ゲン担ぎです。

 

 店内のテレビでは有名な「高校生クイズ」が放送されていました。

 最初は,なんとなく見ていただけですが,自分より年下の学生たちが悠々と難問をクリアしていく姿を目にしていると,試験前のナーバス感も相まってか,気づいたら泣きそうになっていました。

 「ダメだ。。。こんな人たちの行く末の中で勝ち残るなんて不可能だ。」とか思いましたね。

 

そして,翌日の試験,全然ダメでしたね。

見事に綺麗に落ちましたよ(^^あはは。

 

…話が横にそれましたが,

要は合格水準をちゃんと早く知っていれば,ゴールに向かった正しい勉強ができていたはずで,こんな風にブレる必要もなかったというお話しでした。

 

 以上です。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 それでは。